相変らず、あふれる思いと妄想がとまらない私。写真は冷凍しておいた手打ちうどんの適当ご飯。
IMG_8324

でも、最初に書いておこう。(きっと前にも何度も書いているけれど)やっと決めました。生きて行きます。

今日、会社で、手のひらの最近ちょっと気になって軽い痛みのあったつぼをマッサージしていたら、いきなり、親指の下の部分が腫上がってしまって内出血している。まるで、どっかにぶつけたかのように。一応、紫斑病その他も疑ってネットでしらべたけれど、見た目も感覚も全然違う。

この痛みは、これも、以前にヨガのクラスで、手をずっとたたき続けた後にできたあざとその痛みに近い感覚。場所がちょっと違うけれど。で、どうしよう、これなに、といろいろ人に見せていたら、30分くらいで消えてしまって、すっとお腹の辺りが楽になった。

っが、またマッサージしつづけていたら、また腫れて来た。二回目は場所がもう少し限定されている。

あ、で、妄想の話ね。

実は、今回の大泣きはここ一週間くらいのもので、「琵琶湖周航の歌」に触発されてはじまったのだけれど、職場のゴタゴタの悪化はここ数ヶ月のこと、で、ここ数週間が特にひどくて、そのことを考えると膝がすくんだ。これは、大泣きの前。

そりゃあねえ、やっかいで頭の痛い、出口のない悩みではあるが、所詮は、ホワイトカラーの職場の話である。だれかが鉈もっておいかけてくるわけじゃない。私の足がすくむ理由はどこにもないのに、なぜ足がすくむんじゃ!とずっとなぞだった。なので、じゃあ、足がすくむのならば、その怖い感覚にひたればいいやとひたって、5歳の子供よろしく「やだやだやだ」とやってみたときの、これは、私の空想上の完全なる妄想。

私は、天国にいて、これから生まれ変わるために、記憶を忘れる注射をされるところなんだけれど、「やだよ、やだよ、生まれ変わりたくないよお」と駄々をこねていやがっているのに、看護婦さんみたいな天使達に無理やり押さえつけられて、注射を打たれて、この地上におっこどされてしまうイメージ。

これは、俗に言う、スピリチュアルなお話とは矛盾する。ああいう話によると、私は、自分の意志で、自分の学びの計画をたててこの世に生まれ変わることを決めて、そのことを忘れてしまうのは、生まれてきたあとの話なのだから。

ただ、生まれるのを嫌がっている感覚というのは、これもやはりリアルである。

そして、昨日書いた、「守られている私」の過去をずっと考えていた。それから、ここ数日書き溜めていたブログの内容も思い出してみた。もう、過去の記憶とか親戚の思い出とかなくなった伯父の記憶とか入り交ざってぐちゃぐちゃになっているんだが…

そして、早世する運命、あるいは、体が弱い子になるはずであったのに、いつも誰かに助けられて健康に育ってしまった私。いや、その前に、「生きたくはない」と早めに飛び出して自殺行為に走った赤ん坊の私と、前述の駄々っ子のイメージが一致する。

そして、祖母、母、私と続く、3代のトラウマの世代間転移。
そして、早世してしまった良子伯母と私の不思議な共通点…早世してしまった伯父の話…生まれてこのかたずっと頭を離れることがない、罪の意識、何故私が。。。という思い等々、様々な思いが頭の中を駆け巡る。

そして、ここからは、もう、完全なる妄想、スルーしてくださいませ。



だいたい、私がここにきて語学の勉強をしていることや外国に留学してしまったことが伯母の影響であると考えていること自体が間違えているとおもっている。祖母や、祖母の家系は頭がよかったときくが、その血筋は、母にはつたわらず、母の頭の構造のかなりの部分は私につたわった。祖母と伯母譲りの頭のよさと、父の頭を受け継いだのは、姉であって私ではない。英語ができて、きちんとした形で交換留学生試験を受けて留学をしているのも姉である。私ではない。伯母の血を色濃く受けて、伯母の意思を引き継ぐべくは姉であって私ではない。なのになぜ…

なぜ、なにもできないわたしが、なぜいつも助けられる…
これは、私が繰り返し問い続けている疑問。なぜおバカな私がアメリカで暮らしているの?なぜ優秀だった伯母や優秀だった姉ではないの???

そうおもったとき、これが、永遠の私のテーマだと気がついた、そして。。。

私、きっと過去生で、誰かが私の身代わりになって死んでいる。
私を助けるために。。。(←繰り返しますが、妄想です)

さっきのイメージの中の天国の私は、おそらく、もう、「私」としての自我がめざめた直後の私なのでしょう。魂のレベルでは、生まれ変わってやり直すことを決意していても、この過去の重い記憶ゆえに、どうしても、もういちど、生まれ変わって生きなおす勇気がでない。地上に生まれることをこばみつづけた私。

そう、4歳以降のトラウマなんてもんじゃない。私、生まれてこの方、アメリカに来るまで、生きることをずっと拒否し続けていた!

何度も書いているけれど、私が死んでいたかもしれない出来事は20代の時に二回あったけれど、どちらも、ほぼ無傷で助かっている。あの頃の私が、無意識のうちに死を望んでいたことはあきらか。(あ、私を溺愛してくれていた祖母の死の直後と、精神面で経済的な保護者になってくれていて同じく私を溺愛してくれていた父の死の直後ですから、まあ、そんな不思議なことでもなく、別に呼ばれたわけでもなく、私の無意識が絶望感と恐怖感から死を望んでいたのでしょう)

でも、二回とも助けられた!

知っている。ずっと知っている。
だから、生きなきゃいけないんだと、仕方なく考えていた。私の自由意志ではない。私には選択の余地はなかったと。

もう、こんな堂々巡りはやめよう。
覚悟を決めよう。
私は何もしなくてよい。
難しいことや、無理はしなくてよい。
目の前にあることだけをこなしていたら、やることは向こうからやってくる。
いつものように。

だから、受け入れようと思う。
この人生を
誰かの強制ではなく、自分の意思で。
そう、これは強制ではない。
遠い過去のどこかで、私の魂が決めたこと。
この私の魂を生かすために、いろいろな人が犠牲になった。
その無力感と絶望感にいつもおののいていたけれど
受け入れようと思う。
私、自分の意志で生きることにきめた。