写真は一月に焼いたスコーン

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斎藤一人さんのYouTubeをずっと聞いていた。
納得できないことが一つ。
答えが出ないことが一つ。

納得できないことは、たいていの人は一か月前の悩みを覚えていないとのこと。

私、ここ10年くらいずっと、同じ悩みを抱えている。

納得できることは、悩み、あるいは問題とは、答えがないから問題なのだということ。解決策のないものが悩みだとのこと。いくつもの案を堂々巡りして、また同じところに戻ってしまうことをずっと繰り返しているわけだから、この部分はよくわかる。

一人さんによれば、生まれてきた目的は二つ。

人生を楽しむこと。
人に親切にすること。

「私は、愛と光と忍耐です」という理解のもと、人に光を灯すにはどうしたらよいかと考えて、自分が見たくない方向を見れば、答えはそこにあるという。

究極の論理はいけないというから、「じゃあ、私とこの人と、二人に一人しか生きられないとしたら私は死を選ぶだろうか」という極論は忘れるとして。。。

仕事のことでずっと悩んでいる。
外野は気にして、もくもくと自分の仕事に励むべきだと、頭ではわかる。

でも、ずっと気になっていることがある。
ここ5年くらい、私が、同僚の仕事を取り上げてしまったのではないだろうか?

組織変更のあと、元上司が行っていたベンダーさんとの連絡、まあ、基本的には、日々の連絡は当時も私がやっていたのだけれど、今上司が、面倒なことは全部私にまかせているから、結果的に、元上司がやっていたような連絡の一部も私がやるようになってしまった。

この理由はいろいろあって、ベンダーさん側さんからの依頼や今上司の意向もあったから、私に100%責任や変更権限があるわけではないんだけれど...

この件に関して、ベンダーさんからの連絡を一番にもらって、社内的に報告や連絡をしたいと思っている人がいることは知っている。

でも、それをやってもらったら、私が自分の仕事をしないことになっちゃうし...

と、ここ2年くらい、ずっともんもんとしている。これで人間関係が悪くなったりすると、それこそ、こういう大変なことはほっぽり出して、逃げ出してしまおうかという気になる。

逃げ出すことで、問題が解決するのなら逃げ出す。
だけど、私がやらなくなれば、今の部署の同僚が同じ仕事をするだけだから↑の二人の希望は叶えられない。

一人さんのYouTubeに「逃げるが勝ち」というのがあるけれど、微妙に私のケースとは違うみたい。

「私は愛と光と忍耐です」という理解のもとに、相手のことを考えて行動するべきだとしたとき、そして、これが、ここ10年間抱えている問題だとしたとき、私が今、ここで学ばなければいけないものは何なんだろうか。

「目の前にあることにきちんと打ち込む」というのはその一つではあっても、ずっと抱えている悩みの根本解決ではない。

ずっと、私が我慢して、私が犠牲になって、相手のために尽くさなければいけないと思っていたのだけれど、どうも、そのあたりが間違えているような気はする。(←基本的に好き勝手なことをやっているから、あくまで理屈の話ではあるが)

話は突然変わるのだけれど、私、興福寺の阿修羅像が大好き。
突然、このイメージが湧いてきて、なぜか頭を離れない。

なぜ突然に阿修羅様?

たぶん、私の課題、ここ10年にはじまったことではない。

勉強嫌いは昔からだけれど、「いい学校の試験を受ける」ということが決してできなかった(←あ、戯れに受けたけど、まったく準備とかできなかったから、んで、頭もよくないから落ちた)理由は、私みたいなとんでもない人間が、うっかり間違えでも試験に受かってしまってしまったら、他の人に申し訳ないから、そういうことはしてはいけないと思っていた。いい学校、いい会社、素敵な結婚。。。すべて、私が望んではいけないこと。

↑の私が同僚の仕事を奪ってしまったという罪悪感につながっている気がする。

私の人生の課題?
私は、何を学ばなければいけないの?

私は、この世に生きて、幸せになってしまってよいの?
私は、罪の子なのではなかったの?

私は、なんの役にも立たないダメな人間で、いるだけで周りの人を不幸にするから、物陰に隠れて、目立たないように、人の邪魔にならないように、ひっそりと生きていかなければいけないんじゃあないの?

おい、いつまでそんな自己憐憫を繰り返しているだよ!
その自己憐憫こそが、自分だけじゃなくって、私の周りの人すら巻き込んで、いろんな人を私の不幸に引きずり込んでいる理由だろうが...

頭ではわかる。
何度も何度も、「幸せになります」と書いている。

阿修羅様が出てきたということは...

私、無意識のレベルで、まだこだわっている。

そして、これを私に言った人は、やっぱり、まだ、きちんと、この言葉を覚えていたから、子供時代の古い記憶ではない。

私と同じ性格だった私の先祖の一人が(←同じ性格だったというのは、セルフエディットで追加している)、過去にお坊様を殺している。その人の霊が私にすがっているという。。。

この問題は、自分的には去年の12月の時点で解決している。
一人さん曰く、ついている霊が成仏すると、その人は守護霊さんみたいになって守ってくれる存在になるという。

これも、なんとなく感覚としてわかる。

このご先祖様と私がまったく同じ性格だったというのも、実によく理解できる。

私、生まれたときから人と違っていた。
私は、いつも答えを探していた。
正しい答えが知りたい。

「なぜ」「どうして」は、私のデフォルトの質問。この質問については、父が、ものすごく辛抱強く、いろいろと答えて教えてくれた。理科の質問みたいなものが多かったけれど。

だから、私が間違えていたら、人には直接指摘してほしいと、ずっとずっと思っていた。ところが、世間の人は、問題を指摘されるのがきらいなだけではなく(←これくらいは、いくら鈍い私でも、大人になるころには理解していたが)、人の問題点を指摘することすら嫌う。

でも、たぶん、何が問題なのか、見えてないんだろうな。「ただなんとなく嫌」っていうのが正確なとこだと思う。

あれ、また話がずれた。

なぜに阿修羅様のイメージなのか...

戦国時代、人は殺し合いをしていた。
人は、生きるためには命あるものを食さなければいけない。
豆製品と野菜の一部にアレルギーがある私は、菜食主義者にはなれない。

今の私は、もちろん人は殺さない。
人を傷つける言葉も、できるだけ言いたくないと思う。私がいるだけでひがむ人がいたら、これは、もう手におえないから、致し方ないけれど。
無駄な殺生もしない(できるだけね)

阿修羅様は、今は仏様である。(←ですよね?)

私、幸せになっていいんだよね。
自分で、不幸の構図を作り出して悩むのは、いい加減にやめようと思う。